隠れ異邦人の休憩室 3 ルーチン
佐々木菜々子
ルーチン
繰り返し。一見、単調でこの上もなく退屈に思われているようだが、実は常用性のある麻薬のような魔力をもっているのではないだろうか、と隠れ異邦人は考える。
わたしたちは、同じ物語を繰り返し聞かされることに快感を覚えます。子どものころ「むかしむかしあるところに・・・」で始まり、「めでたし、めでたし」で終わる物語を、いくつもいくつも飽きもせず読んだ、あるいは読んでもらった経験をもつ人は多いでしょう。また、いつも同じ公式の変奏であるにすぎない「水戸黄門」のような番組が国民的な長寿番組になっているのはなぜでしょうか。わたしたちは、規範にのっとって公式どおりに展開する物語を与えられると、どうも安心して落ち着く習性があるようです。「水戸黄門」ファンにとっては、物語の最後は、差し出された印籠の前に悪者たちが「ははぁっ!」と地面にひれ伏して終わることに意味があるわけで、もし印籠を犬がくわえて走り去り、何事もなかったかのように戦いが繰り広げられ、水戸黄門が腰の骨を折って動けなくなりでもしたら、終わった!これで一週間後また安心して次回を見よう!という気になれないでしょうからね。
物語の繰り返し効果にみられるのと同様に、わたしたちは日常の繰り返しにも安住してしまう傾向があるようです。いろいろ不満は言っていても、朝になるとサラリーマンはネクタイを締め、紺の背広を着て、満員電車に揺られて出勤し、いつもと同じ仕事を終えるとまた満員電車に揺られて帰ってくる。日課のように駅の売店で買うスポーツ新聞や、帰りに立ち寄る飲み屋までルーチン化されている人もいるかもしれません。その生活が特別気に入っているふうでもないのですが、何を考えなくても自動的にまわっていく日常に、一種の安定した心地よさを感じているのでしょう。
しかし、最初からルーチンなるものができあがっていたわけではありません。最初はだれでも異邦人として出勤した、そんな時があったのです。
たとえば、突然あなたが病院で働くことになったとしましょう。ここで、病院を例にとったのは、そこで行われていることは一般人にとっての日常から最もかけはなれたことが行われている場所のひとつだと思うからです。そこは、死が日常的に存在するところで、そこでは、人間は人前で裸になったり、体を触られたり、痛い目にあわされたり、果ては手術台で体を切り刻まれたりします。何の予備知識もない者が見るとそこは常軌を逸した場所だと言えるでしょう。しかし、そこでそういうことが平然と行われているのは、そこが病院だという共通認識があることに加え、スタッフたちもそれを日常的な業務としてルーチン化してしまっているからです。
繰り返される物語と同様に、ルーチンも経験を秩序づけ、そこに人為的な意味と形式を与えます。その意味でルーチンは組織として業務を遂行するうえで、なくてはならないものですが、一方で、ルーチンは部外者からみれば異常と思われることがごく日常的なこととして取り扱われることで、驚きや疑問、異常性に対する感覚が麻痺してしまうという怖さもあるわけです。

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